
Q:同性愛を認めるならペドフィリアも認めるべきでは?
メディアワークス「コミック電撃大王」誌上において、
2005年5月号から
『百合星人ナオコサン』という奇妙な漫画が連載されている。
作者はkashmir。
主人公の女子中学生【みすず】の家に、
ある日突然、
「百合星」からやってきた宇宙人
【ナオコサン】が居候を始め、
「百合星」の科学を駆使して
珍騒動を繰り広げるという設定のギャグ漫画である。
「百合星人」というタイトルを見れば、
【みすず】と【ナオコサン】が
「百合関係」を形成する作品なのかと推察される。
しかし、
「百合星」における「百合」の概念は、
この地球におけるそれとニュアンスが異なるようで、
【ナオコサン】が性的な関心を見い出すのは
専ら“幼女”だ。
加えて【ナオコサン】は、
しばしば【みすず】にも自身のペドフィリア嗜好をお仕着せすることから、
そうした「カルチャー・ギャップ」が笑いどころになっている。
【みすず】の親友【柊ちゃん】が
【みすず】に恋愛感情を抱いている
という設定もいちおう加味されてはいるけれど、
当の【みすず】は「ノンケ」であるらしく、
そちらの方向には話が盛り上がらない。
よって上述のとおり、
作品の世界観としては「百合」よりも
【ナオコサン】のペドフィリア嗜好に焦点が当てられることとなる。
その証拠に、
単行本第2巻の初回版に付属していたCDには、
作品のテーマソングの他に
PC用のデスクトップ・アクセサリーが収録されていたのだが、
そこに描かれていたキャラクターは
【ナオコサン】【みすず】【柊ちゃん】といった
主要メンバーではなく、
脇役として登場する「プロ幼女」であった。
むしろ『百合星人ナオコサン』の場合は、
ペドフィリアの“ヘンタイ性”を緩和するために、
【ナオコサン】を女性として設定し、
それが結果として「百合」になったという感が強い。
「同性間の関係においては互いを傷つけ合わずに済む」という、
<セクシュアル・マジョリティ=異性愛者>特有の
おかしな思い込みを逆手に取ったブラック・ユーモアと言える。
「〜だな!」「〜なんだ!」といったふうに、
常に“男言葉”で喋る
【ナオコサン】の不自然な台詞回しも、
ペドフィリアが通常は
“男性の性”と見なされている実情を反映しているかのようだ。
関連記事:
異性愛至上主義に根ざす<「百合」=癒しの性>幻想〜蔵王大志+影木栄貴『春夏秋冬』
縁日のお面のごとく虚ろな笑みを浮かべる、
作者独特のキャラクター造形も相俟って、
ナンセンスな中にも不吉な読後感を残す作品である。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
さて、
近頃はいわゆる「クィア主義」の文脈において、
「同性愛を肯定するなら、
同じセクシュアル・マイノリティである
ペドフィリアも肯定するべきだ」
といった主張を目にするようになった。
しかし、
これは「属性」としての“同性愛”と
「パーソナリティ」としての“同性愛者”を
混同した詭弁に他ならない。
個々の「パーソナリティ」は単一の「属性」ではなく、
様々な「属性」が複雑に絡み合った上で形成される。
言い換えれば、
“同性愛”は「性的指向」であっても、
“同性愛者”は各々の「性的嗜好」を有するのだ。
しかるに、
“同性愛”自体の健全性を肯定することは、
個々の“同性愛者”の健全性までも保障するものではない。
ましてや、
同性愛の健全性を根拠に
「ペドフィリアの健全性」を主張するのは、
それこそセクシュアル・マイノリティを
「ヘンタイ」と決めつけ、
各々の個別性を無視する異性愛至上主義の裏返しにすぎない。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
そもそも、
俗に言う「ヘンタイ」とは、
精神医学における
「性嗜好障害(パラフィリア)」の副次的概念である。
すなわち、
治療の対象とはならないまでも、
“健全”とは言い切れないセクシュアリティを指す。
理由としては、
「その性質上、相手の合意を得ることができない」
「肉体的および精神的に危険が伴う」
といった要素が挙げられる。
関連記事:
裏を返せば、
精神医学における治療の対象にならないことは、
その嗜好の“健全性”を保障するものではないのである。
そしてこのことを刑法に置き換えれば、
漫画やゲームといった
「現実の被害者が存在しない」
フィクションのポルノ表現にも当てはまる。
2002年5月10日。
日本政府が国連の要請に従い、
「児童ポルノ」の定義を
実在の児童が被写体とされるものだけでなく
フィクション作品にまで拡大した上で、
法による規制の対象に含める議定書に署名した。
以来、
児童ポルノ法や東京都青少年健全育成条例が
「改正」される動きが起こるたび、
日本のオタク業界は存亡の危機に見舞われることとなる。
関連記事:
「朝日新聞」2002年5月11日付
「ポルノ作品が現実の性犯罪を助長する」
という規制推進派の主張が
オタクに対する偏見に根ざしたものであることから、
規制反対論は同時に
オタクのエンパワーメントを志向するものとなっていった。
今や、ポルノ表現に対する不快感を
少しでもブログやmixiの日記で表明しようものなら、
たちまち「規制推進派のシンパ」と決めつけられ、
どこからともなく現れる規制反対派によって
「炎上」させられるという“魔女狩り”のごとき様相である。
関連記事:
[「ヘンタイ」いーの] − 百錬ノ鐵 hyaku ren no tetsu
参考資料:
『嫌オタク流』
(P218 著:高橋ヨシキ/中原昌也 刊:太田出版 ※改行・強調はOssie)
「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」(通称「児童ポルノ法」)が法案として国会に提出されるにあたり、与党案では児童ポルノ規制の一環として「絵」を規制するとしていたことから、マンガが規制の対象となる可能性が浮上。マンガ家や読者の間で「絵」を規制から外すための運動が起こった。
絵のモデルが存在しないケースが大部分であるマンガの場合、被害者となる児童が存在しないため、児童の人権保護という法案の要旨とも外れ、憲法で保障されている「表現の自由」を侵食するという点が反対論の要旨であった。「連絡網AMI」が署名活動を行うなどの反対活動を行なったほか、各種の個人や組織がネット上でも反対を呼びかけた。
大部分は法案の要旨と問題点を理解した上での運動だったが、一部には「ただ闇雲に国家権力が自分たちの大好きなマンガを取り締まろうとしている」といった程度の理解しかないオタクもおり、反対運動のイメージダウンにつながった。
そこで、
規制反対派が金科玉条のごとく掲げるのが
「現実の被害者が存在しない」という決まり文句である。
そもそもこのレトリックは、
上述のとおり
実際の児童を撮影した「児童ポルノ」のみならず
漫画やアニメなどの「二次元表現」を含めた
「準児童ポルノ」の単純所持までも違法化せよ、
という“極論”に対して生み出されたものだ。
(なお、「準児童ポルノ」の定義には
成年の女優が未成年の役を演じる
「三次元」のフィクション作品も含まれているため、
「二次元」の規制のみに焦点を当てた議論は誤りである)
しかし裏を返せば、
それ自体がそうした極端な事例でしか
用いることのできない“極論”なのである。
(よって「現実の被害者が存在」する
本義の「児童ポルノ」に対しての法規制までも妨げるものではない)
ましてや、
それを根拠に「ポルノ嗜好の社会的認知」を唱えだしたとたん、
一面的な“正論”は自己正当化の詭弁に転じてしまう。
「現実の被害者が存在しない」がゆえに「健全」
という理屈に従うなら、
スカトロマニアが糞食を嗜むことも
「現実の被害者が存在しない」
「誰にも迷惑かけてない」ことになる。
しかしスカトロが「健全な性的嗜好」であるなどという主張が
いかに非現実的であるかは考えるまでもないだろう。
さらに言うなら、
仮に「現実の被害者が存在」したところで、
「バレなければいい」
「捕まらなければいい」という理屈になってしまう。
なぜなら、
「現実の被害者が存在しない」
という単純な事実は、
あくまでも刑法上の正当性を裏付けるものでしかなく、
嗜好そのものの健全性を何ら保証しない。
よって、
この場合の「被害者」は刑法上の定義に限定されるからだ。
Ossie註:
実際、児童買春に手を染める者は、季節労働者として観光シーズンのリゾート地の旅館などに住み込みで働き、あるていど金を貯めてから、海外に児童を買いに行くケースが多いという。監視の目が厳しい日本国内でやるバカはいない。
参考資料:
『アジア「裏」旅行』内
『カンボジアの変態オヤジ』
(P143-144 著:平間康人 刊:彩図社)
もとより法は、
犯罪の抑止に“利用”することができるとしても、
法それ自体が犯罪を抑止するわけではない。
あくまでも個人の「良心」に委ねられている。
裏を返せば、
「法的正当性」に依存することは
「良心」の放棄を意味する。
しかるに、ポルノ嗜好者が
現行法の不備をついて公序良俗を蹂躙するなら、
彼(女)らの「良心」に代わる抑止手段として、
法規制を強化する必然性が生じてしまう。
つまるところ、
「法に抵触さえしなければ何をやっても許される」
というレトリックは、
「ならば法を改正しよう」
というイタチごっこに陥るだけなのである。
見方を変えれば、
ポルノ表現の「健全性」の根拠を
刑法に求める発想は、
個人の倫理に属する判断を国家権力に委ねている
という点において、
ポルノ違法化の推進とまったく同じ愚を犯していることになる。
それはつまるところ、
「ポルノ嗜好者は犯罪者予備軍」
といったタブロイド思考をそのまま裏返しにして、
「反ポルノ嗜好者は『表現の自由』の敵」
という別のタブロイド思考に陥っているにすぎない。
「ポルノに耽溺することが
『かならずしも』現実社会の性犯罪に繋がるとは限らない」
と主張するのであれば、
「ポルノを嫌悪することが
『かならずしも』ポルノ表現の根絶に繋がるとは限らない」
という“不都合な真実”にも目を向けるべきであろう。
Ossie註:
言うまでもないことだが、私自身はけっして表現規制推進に与する者ではない。ただ、「ウヨクを批判する奴はサヨク」レベルの短絡的な二項対立思想、あるいは規制反対にかこつけて自己の卑しい性癖の正当化を目論む輩に対し、あえて釘を刺す意図で「正論」を示したまでである。
関連記事:
「非実在レズビアン」は成立しない〜ホモフォビア産業に対抗するには?
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
ちなみに、
「本来ペドフィリアではない者が
成人の代わりに幼児を性欲の捌け口にする」ケースを指して
「チャイルド・マイスター」という言葉があり、
ペドフィリア擁護派はしばしば
「ペドフィリアが必ずしもチャイルド・マイスターになるとは限らない」
という理屈で両者の違いを強調する。
そして、
幼児犯罪の大半がペドフィリアではなく、
「チャイルド・マイスター」によって行なわれるのだと言う。
この主張は、
「性的指向」としての同性愛とは別に、
周囲に異性がいない環境の中で
同性を異性の代替として恋愛の対象とする、
「性的嗜好」としての同性愛(機会的同性愛)が存在することに対応している。
言うなれば、
ペドフィリアは「指向」、
チャイルド・マイスターは「嗜好」という捉え方である。
だが、
幼児との性交渉が本質的に
「大人」と「子供」という
社会的・肉体的力関係の差を内包している以上、
それは一方的な「性的搾取」にしかなりえず、
仮にペドフィリアを「指向」としてみたところで
健全性の根拠にはならない。
そもそも、
精神医学における「性的指向」の概念は
「性自認」を“基点”とするものであり、
たんに「変えられない」「生まれつき」といった条件によって規定されるのではない。
ましてや同性愛が「健全」と見做されているのは、
善悪・優劣といった価値判断の対象となりえないがゆえであり、
「生まれつきで変えられない」から
「差別しては可哀想」という理屈では、けっしてない。
こうしたことから、
同性愛の健全性をペドフィリアの「健全性」にパラフレーズするのは無理がある。
また同時に、
ペドフィリアとチャイルド・マイスターの「差別化」を企てる
ペドフィリア擁護論は、
皮肉にも、
これまたポルノ擁護論のクリシェ(決まり文句)である
「ポルノ作品が現実社会の性犯罪を抑止する」という主張を覆す。
なぜなら、
「チャイルド・マイスター」にとって
「ペドフィリア」の欲求を満たすためのポルノ作品は“抑止”にならないからだ。
むろん助長するものでもないだろうけれど、
漫画やアニメ、ゲームといったオタク文化(いわゆる「二次元」)は、
「現実社会(三次元)のマガイモノ」ではなく、
それ自体が独立した嗜好(セクシュアリティ)として機能している。
したがって、
「性犯罪を助長するものではないが、
かといって抑止するものでもない」というのが模範解答であろう。