
「西暦2041年」のホモフォビア
〜山本弘『アイの物語』
SF作家の山本弘と言えば、
世間ではむしろ
「“と学会”の会長」という肩書きで通ってきたが、
このところようやく本業の方でも脚光を浴びつつあるようだ。
2006年に発表された短編小説集『アイの物語』は、
辛口で知られる文芸評論家の豊崎由美が、
雑誌「TVブロス」の書評で惜しみない賛辞を送っている。
全7話中、書下ろしは表題作と『詩音が来た日』のみで、
あとはどれも既発表作品。
しかし、各話の後に『インターミッション』を挟み、
さらに『プロローグ』と『エピローグ』を加えたことで、
あたかも一本の長編小説であるかのような統一感をもたせている。
その舞台となるのは、
人類がAI(人工知能)に取って代わられた、未来の地球。
アンドロイドの「アイビス」が、
アンドロイドを憎悪する少年に対して、
滅亡する前の人類が遺した物語を読み聞かせる――という趣向となっている。
このフォーマットが面白いのは、
各インターミッションにおいて、
アイビスと少年が、
その前に語られた作品について意見を戦わせる件。
それらは同時に、
作者の小説観となっている。
評論家としても知られる作者だけに、
自分の作品にも鋭く突っ込みを入れる。
たとえば『宇宙を僕の手の上に』という作品について。
(P59)
「昨日の話だけど、あれは本当にフィクションなのか?」
「ええ」
「現実にあんな事件はなかったと断言できるのか? 誰かが実際の事件を元に書いたノンフィクションだという可能性は?」
「記録を詳しく検索したわけではないけど、ないと断定していいと思う。(中略)現実にありえないことが書いてある」
「と言うと?」
「刑事が一人で主人公のアパートに訪ねてくるシーンがあったでしょ? 実際には当時の刑事は二人一組で行動していたの。作者はそれを知らなかったのか、あるいは知っていたけどわざと事実を歪めたのかもしれない。刑事が二人いると話が複雑になるから」
実際のところ、
この「刑事が二人一組で行動する」という事実を、
作者はあらかじめ知っていたのか、
それとも知らずに書いて目ざとい読者から指摘されたのかは定かでない。
しかし、いずれにせよ、
作劇上においては「許される嘘」だということをアピールしているのである。
また、本編となる全7話のどれもが
「人間とAIの関わり」をテーマとしていることから、
結果として、
「仮想現実の存在意義」を強調する内容となっている。
仮想現実には、もちろん小説も含まれる。
フィクションで得られる感動が、
かならずしも現実世界で得られるそれに劣るものではないこと。
そして、
現実がかならずしもフィクションより「正しい」とはかぎらないということを、
フィクションを生業とする作者が自身の作品を通して訴える。
とくに表題作では、
「自分は真実を知っていると思い込んでいるヒトが、
外界からの真実の情報を無意識にシャットアウトすることで、
自分自身を偽ろうとする心理的機構」を
「ゲドシールド」という造語で言い表し(P391)、
それが『アイの物語』という作品全体の“オチ”に収束していく。
この「自分が信じたいものしか信じない」という人間心理の愚かさは、
『妖魔夜行』シリーズや『神は沈黙せず』、
また作者のもう一つの顔である
「トンデモ本研究」においても繰り返し語られてきた。
山本作品を読み解く上で重要なテーマと言える。
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さて、そのことを踏まえた上で、
山本作品の特徴をもう一つ挙げてみたい。
(お待たせしました。このサイト的にはここからが本題です!)
それは、主人公がたいてい女性であること。
『時の果てのフェブラリー』
『ギャラクシー・トリッパー美葉』
『妖魔夜行 戦慄のミレニアム』
『神は沈黙せず』といった代表作のほとんどがそれに該当する。
本作も、本編7作品のすべてが女性主人公。
また、狂言回しを務めるアイビスも女型アンドロイドである。
参考資料:
「山本弘のSF秘密基地」内
僕の小説の多くは、女性が主人公です。これまで数多くのヒロインを送り出してきました。モーガン、フェブラリー、美葉、摩耶、チャイカ……言うまでもなく、むさ苦しい男を主人公にするより、その方が楽しいからです。
しかし同時に、今の世の中に氾濫している薄っぺらな美少女キャラ、オツムが空っぽで、あまりにも男に都合の良すぎるキャラに、反発も覚えています。僕が描きたいのは、自分の意志で行動する女性、生きたキャラクターなのです。
とくに、
『ミラーガール』『ブラックホールダイバー』
『正義が正義である世界』『詩音が来た日』は、
女性キャラクター同士の友情を軸にストーリーが進んでいく。
とはいえ、
それらはあくまでも“友情”であり、
恋愛感情に転じることはないので、
(『ミラーガール』と『詩音が来た日』の主人公は男性と結婚する)
「百合物」とカテゴライズすることはできない。
しかし、百合好きの中には
『NANA』や『下妻物語』や『苺ましまろ』までも
「百合」と呼ぶ者がいて、
おそらく彼(女)らは
上掲の作品も自分たちに都合良く「曲解」するのだろう。
「どのような楽しみ方をしようと読者の自由」
という見方もあるかもしれない。
だが、少なくとも当の作者は、
そうした「曲解」をきっぱりと拒絶している。
以下は、本編のラストを飾る表題作の一幕。
西暦2041年、
AIが人類に取って代わるきっかけになった事件を描くこのエピソードでは、
アイビスが主人公となる。
アイビスは人間である「マスター」の命令に従い、
仮想空間「レイヤー2」において、
同じく仮想人格である「レイブン」と架空のバトルを繰り広げる。
(P335-336)
「断わる! 卑劣な手で信濃を倒したお前などと、誰が手を組むものか!」
「おやまあ、潔癖なこと」
レイブンは「なまめかしい嘲笑」を浮かべ、進み出る。
「そんなにあの子のことが好きだったの?」
「彼女は私の最高のライバルで、そして親友だった」
「戦いの中で愛が芽生えた、というわけ?」
レイブンは相手の意表を突いた台詞を見つけてくるのが得意だ。私は一瞬、その言い回しが理解できず、どう返すべきか迷った。レイブンが〈あなたと信濃の同性愛関係をほのめかした。 侮辱(10+0i)〉と教えてくれる。私はすぐに「プライドを傷つけられた怒り」を表示。(中略)
「うおおおお!」(中略)
「私のことは何とでも言え! だが、信濃を侮辱するのは許さない!」
僕がこの文章を書いている2008年の時点において、
同性愛はWHOや国際精神医学会といった精神医学の公的機関によって
「健全な性的指向(“嗜好”や“志向”ではない)」と位置付けられ、
「いかなる治療の対象にもなりえない」と規定されている。
ところが、作者の夢想する「2041年」の社会では、
いまだに同性愛が「ヘンタイ趣味」と見做されているようだ。
そのていどの社会であったからAIに乗っ取られてしまったのだ
……と解釈することもできるだろうが、
ここでは作者自身の同性愛に関する認識の露呈として素直に捉えてみる。
自身の創作した女性キャラクターに対し、
恋愛感情にも近い思い入れをもつ作者は、
おそらくアイビスやレイブンについても
“この上なく魅力的なヒロイン”として描いているつもりなのだろう。
しかし、
そんな愛すべき彼女たちにレズビアンを差別させることについては、
なんら躊躇いを感じていないように思える。
それどころか、
「同性愛に嫌悪感を抱かないことのほうが異常」
といったニュアンスしか、
この場面からは伝わってこない。
でなければ、
それこそ“作劇上の必然性”
ないしは「ゲドシールド」の一例として挙げるはずである。
警官が一人で来るか二人で来るかなんてことより、
はるかに重要な問題ではないか。
正直言って、僕はひどくがっかりした。
それまでの6作品(とインターミッション)で提示されてきた、
作者のフィクションに対する見解には、
同じくフィクションを愛する者として強く共鳴する。
だが、同時にフィクションの「限界」も思い知らされた。
――しょせんヒトの作りしものである以上、
フィクションが作者の“常識”を超えるものにはなりえない、ということだ。
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さて、ここで
なぜ作者の言う「ゲドシールド」なるものが形成されるに至るのか、
という問題について考えてみたい。
まず、メディアが正しい情報を流さないという実情がある。
だから、
たんに作者が同性愛について無知であること自体を
あげつらうことはできない。
しかし、「正しい知識」を手に入れたとたん
「ゲドシールド」は崩壊する、という単純な話でもない。
実際、レズビアン当事者の中にも、
自らの性的指向について罪悪感や劣等感を抱く人がいる。
そんな彼女たちに「正しい知識」を説くことは、
もちろん必要不可欠ではあるけれど、
それだけでは根本的な解決にはならない。
なぜなら、彼女たちの「痛み」は
当人の“無知”に起因するものではなく、
他者の“悪意”に対する反応であるからだ。
それを当事者の「心のもちよう」に還元するのは、
じつのところ体(てい)のいい責任転嫁でしかないのである。
むろん、
同性愛者に対する“悪意”の中には、
「“無知”に起因するもの」もある。
たとえば、
「同性愛の容認が少子化を促進する」といった主張は、
人の性的指向が固定的なものであり、
他者に“伝染”するものでないという
精神医学の知識を提示すれば氷解する。
だが、ホモフォビアの大半はそうした“理性的”なものよりも、
むしろ「自然の摂理に反している」だとか、
あるいはたんに「キモい」だとかいった“感情的”なものであり、
上掲のアイビスたちの言動もそれに相当する。
これらは、
一方的な性的搾取に繋がるペドフィリアへの不快感とは異なり、
何一つ論理的な正当性をもたないものである。
また、ペドフィリアの場合は
「反ペドフィリア」という“反嗜好”をもって対立しうるが、
同性愛を否定するのは、
“性的指向”である異性愛ではなく
“性的志向/嗜好”である異性愛至上主義だ。
しかし、
“志向/嗜好”によって“指向”を評価することはカテゴリー・エラーであり、
そうした“不適切な序列化”を「差別」と呼ぶのである。
むしろ実際は、
そうした“感情的”なホモフォビアを正当化する口実として、
上述した無知に起因する“理性的”なホモフォビアが
「隠れ蓑」として利用されていると言える。
たとえば
少子化を促進するという理由で同性愛を否定するなら、
異性愛者であっても生殖を望まなければ
恋愛や結婚をする資格がないという血も涙もない帰結になる。
こんなことは、
いちいち精神医学上の「正しい知識」などもちださなくとも
容易に理解できるはずである。
むろん、「正しい知識」は
ホモフォビアを弱体化する要因にはなりうるだろう。
しかし、ホモフォビアそのものを消し去ることはできない。
その次は
「精神医学を絶対視するのは権威主義だ」
「レズをキモいと感じるのは内心の自由だ」
といった口実を持ち出して
ホモフォビアを正当化するのが目に見えている。
また、表現規制の問題について
「と学会」の著書や自身のブログでダウトを投げかけている作者なら、
そこに
「フィクションのヒロインが聖人君子である必要はない」
という口実を加えるかもしれない。
となれば、
知識の有無は当人の差別意識とは直接関係がない。
つまり、
“無知”を理由に差別を正当化することはできないということだ。
作者の意識の中に、
アイビスたちのホモフォビアを「カッコいい」と捉える感性があるかぎり、
作者は「ゲドシールド」を文字通り“盾(シールド)”にして
ホモフォビアを正当化し続けるだろう。
「ゲドシールド」を打ち砕くのに必要なのは、
通り一遍の知識ではなく、
そのような感性がいかに醜悪なものであるかを見抜く美意識に他ならない。
Ossie註:
上に示した「ホモフォビアの口実」は、以下のように論破することが可能である。
「精神医学を絶対視するのは権威主義だ」
→同性愛を「異常」と規定するからには、「正常/異常」を規定するための「指針」が必要。その「指針」となるのが精神医学である。
なお、宗教上の戒律によって同性愛が禁じられている場合もあるが、それは精神医学と違って普遍性をもたない。ゆえにその「指針」に基づいて可能となるのはせいぜい自ら同性愛をしないように「志向」することのみであり、他者の同性愛を禁じたり、なおかつ侮蔑する根拠にはなりえない。
「レズをキモいと感じるのは内心の自由だ」
→たんに「感じる」だけでなく、言動に移した時点でそれは“内心”ではない。
「フィクションのヒロインが聖人君子である必要はない」
→フィクションの中でホモフォビアを描くこと自体を否定しているのではなく、作者がホモフォビアを“どのように”描いているかを問題としている。
作品が作者の「理想」を表現するものである以上、その内容において作者に責任が課せられるのは自明の理である。よって『アイの物語』のように、ホモフォビア的言動を登場人物の「カッコ良さ」の象徴とする描写は、作者がホモフォビアを正当化している証左として解釈されても言い逃れはできない。